すべての本 | バガヴァッド・ギーター | 第 3 章
バガヴァッド・ギーター 2.72
स्थित्वास्यामन्तकालेऽपि ब्रह्मनिर्वाणमृच्छति ॥ ७२ ॥
naināṁ prāpya vimuhyati
sthitvāsyām anta-kāle ’pi
brahma-nirvāṇam ṛcchati
eṣā — this; brāhmī — spiritual; sthitiḥ — situation; pārtha — O son of Pṛthā; na — never; enām — this; prāpya — achieving; vimuhyati — one is bewildered; sthitvā — being situated; asyām — in this; anta-kāle — at the end of life; アピ — also; brahma-nirvāṇam — the spiritual kingdom of God; ṛcchati — one attains.
翻訳
これが精神的で聖なる道ここに達すれば一切の迷いは消える死ぬ時においてすらここに至れば必ずや神の領域に往くのだ
解説
今すぐ、このクリシュナ意識、聖なる生活に入れる人もあり、また、何百万回生まれ変わり死に変わりしてもこの境地に達しない人もいます。ただ真理を理解して受容するか否かの問題です。カトヴァーンガ・マハラージは、死の数分前にこの境地に達しました。死の間際になってクリシュナに全面服従しました。ニルヴァーナ(涅槃)とは、物質次元の生命過程が終了した、という意味です。仏教哲学によれば、この肉体生活が終わったら後は「空」だと言います。しかし、バガヴァッド・ギーターの教えは違います。本当の生活は、肉体がなくなってから始まる、と教えています。はなはだしく物質的な人にとっては、この物質界での生活が無事終了すればそれで十分なのでしょうが、精神的に進んだ人々にとっては、肉体生活終了後に、また別の生活が待っているのです。物質界での生活が終わる前に、もし幸いにもクリシュナ意識になったならば、その人は直ちにブラフマ・ニルヴァーナの境地に達します。神の国での生活と献身奉仕の生活には、何らの差異もありません。ともに相対観念を超越した至福の境涯です。自分のすべてを主に捧げきり、任せきった生活は、即、精神界の生活です。物質界には感覚欲を満足させるための活動があり、精神界にはクリシュナ意識の活動があります。今生でクリシュナ意識になることは、肉体を持ったままブラフマンに達したことなのです。肉体を着たまま神の国に入って生活していることなのです。
ブラフマンとは、物質と相反するもの。したがって”ブラーフミー スティティ”とは、「物質次元の活動の場ではない」という意味です。主への献身奉仕は解脱の境地であると、バガヴァッド・ギーターでは確認されています。ですから、”ブラーフミー スティティ”は物質の鎖から解放された状態のことなのです。
シュリーラ・バクティヴィノーダ・タークルはこの第二章をバガヴァッド・ギーター全体の要約としました。ギーターの主内容は、カルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、およびバクティ・ヨーガですが、この第二章においては、カルマ・ヨーガとジュニャーナ・ヨーガについて詳細明白に説明され、また、バクティ・ヨーガの内容も一見できます。
以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第二章”ギーター”の要旨に関するバクティヴェーダンタの解説は終了です。
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