すべての本 | バガヴァッド・ギーター | 第 3 章
バガヴァッド・ギーター 2.20
न्नायं भूत्वा भविता वा न भूयः ।
अजो नित्यः शाश्वतोऽयं पुराणो
न हन्यते हन्यमाने शरीरे ॥ २० ॥
ナヤンブトヴァバヴィタヴァナブヤー
アジョニッチャシャスヴァトヤンプラーノ
ナハンヤテーハンヤマネシャリレ
na —決して~でない; jāyate —誕生する; mriyate —死ぬ; vā — どちらも(~でない); kadācit — いかなる時でも(過去、現在、未来); na —決して~でない;ayam — これ; bhūtvā — (過去のある時点で)生じた; bhavitā —将来現れる; vā — または; na —決して でない; bhūyaḥ — または再び現れる; ajaḥ —生まれない; nityaḥ —永遠な ; śāśvataḥ —不変な; ayam — これ; purāṇaḥ —最古の; na —決して でない; hanyate —殺される; hanyamāne —殺されても; śarīre —肉体.
翻訳
魂にとって誕生はなく死もない原初より在りて永遠に在り続け肉体は殺され朽ち滅びるともかれは常住して不壊不滅である
解説
『カタ・ウパニシャッド』にも同じような章句があります。
In the Kaṭha Upaniṣad (1.2.18) we also find a similar passage, which reads:
na jāyate mriyate vā vipaścin
nāyaṁ kutaścin na babhūva kaścit
ajo nityaḥ śāśvato ’yaṁ purāṇo
na hanyate hanyamāne śarīre
この意味は本節と同じですが、ただ、”ヴィパシュチット”という特別な一語が使われています。これは、知識ある、という意味です。
魂は知識に満ちています。言葉を変えれば、意識に満ちています。意識こそ魂のしるしです。たとえ魂が心臓の座にあることを認められない人でも、意識が存在するということによって、魂の存在が理解できるはずです。雲やその他の理由によって太陽の姿が空に見えない場合でも、日光によってあたり一面が明るいから、私たちは、昼間である、つまり太陽がこの空にあることを確信します。明け方、ほんの少し東の空が明るみかけると、もう私たちは太陽が空にあることを理解します。同じように生きとし生けるものすべての体、人間でも動物でも、には多かれ少なかれ意識がありますから、魂があるのがわかるのです。ですが、この魂の意識は、至上者の意識とは違います。至上意識は過去、現在、未来にわたる完全智です。ですが個々の魂の意識は不完全でまことに忘れっぽいのです。自分の本性を忘れてしまったときには、クリシュナの教訓を受けて教育され啓発されなければなりません。クリシュナは個々の魂とは全然違います。もし同じようなものなら、ギーターにおけるクリシュナの教えは役に立たないでしょう。
魂には二種類あります。微小な粒子魂(アヌアートマー)とスーパーソウル(ビブアートマー)。これに関して、『カタ・ウパニシャッド』には次のように明記されています。
aṇor aṇīyān mahato mahīyān
ātmāsya jantor nihito guhāyām
tam akratuḥ paśyati vīta-śoko
dhātuḥ prasādān mahimānam ātmanaḥ
「スーパーソウル(パラマートマー)と原子魂(ジーヴァートマー)は、生き物の胸の中にある一本の樹に住んでいる。全ての物質的欲望と悲観から解放された者だけが至上者の慈悲を受けて、魂の栄光と至福を知る。」 以後の章で説明する通り、クリシュナこそ至上魂の本源であり、そしてアルジュナは自己の本性を忘れた原子魂です。ですから彼は、クリシュナか、クリシュナの正統な代理者(グル、精神の師)によって啓発されなければならないのです。
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