すべての本 | バガヴァッド・ギーター | 第10 章
バガヴァッド・ギーター 9.2
प्रत्यक्षावगमं धर्म्यं सुसुखं कर्तुमव्ययम् ॥ २ ॥
パヴィトラミダムッタマン
プラテャクシャーヴァガマンダハルミャン
ススカハンカルトゥマヴャヤン
rāja-vidyā —教育の王; rāja-guhyam —秘奥な知識の王; pavitram —最も純粋な; idam — この; uttamam —超越的な; pratyakṣa —直接の体験により; avagamam —理解した; dharmyam —宗教の; su-sukham — とても幸福; kartum — 実行するのが; avyayam —永遠の
翻訳
この知識は教育の王、すべての神秘のなかの最秘、最も純粋な知識である。自己の本性を悟りによって直接感知できるので、まさに宗教の完成である。これは永久の知識であり、楽しく実行できる。
解説
『バガヴァッド・ギーター』のこの章は“教育の王”と称してある。なぜなら、ここに述べてある内容は、いままで説明した教義原則、また諸哲学の精髄(エッセンス)だからだ。インドには主要な哲学者が7人いる。ガウタマ、カナーダ、カピラ、ヤージュナヴァルキャ、シャーンディリヤ、ヴァイシュヴァーナーラ、そして最後にヴェーダーンタ・スートラの学者であるヴィヤーサデーヴァ。したがって哲学や超越的知識の分野においては、何一つ不足しているものはない。ここで主はおっしゃる。「この第9章はあらゆる哲学、超越的知識の王であり、またヴェーダの学習、様々な種類の哲学を学んで得られる全知識の精髄(エッセンス)である。」と。肉体と魂の相異を理解することを含んだこの秘奥な知識の王は、極まるところ献身奉仕となるのだ。
ふつう、人々はこの秘奥な知識に関する教育を受けていない。外側の、表面的なことについて教育されているだけだ。一般的な教育は実に様々な部門を含んでいる。――政治学、社会学、物理学、化学、数学、天文学、工学等々――世界中には実に多くの知識分野があり、そしてまた、巨大な大学が沢山あるのだ。しかし、不幸なことに、精神魂の科学を教えてくれる大学や教育機関は一つもない。肉体にとって魂が最も重要な部分だというのに――。魂がなかったら肉体など何の価値もない。それなのに人々は肉体に必要なことのためにやたらと努力奮闘していて、一番大切な魂についてはまるで無関心なのである。
『バガヴァッド・ギーター』の第2章からは、魂の重要性を殊のほか強調している。最初に主は「肉体は滅びるが魂は不滅である」とおっしゃっている。このことが一つの秘奥な知識である。精神魂はこの肉体とは別のもので、本来死ぬことも壊れることもなく永遠に存在する――単にこれを知っているだけでは、魂についての積極的な資料ではない。「魂は肉体とは別のもので、肉体が終わって、肉体から解放されたら、個性を無くして魂は“空”に帰る」――こんなふうに思っている人々もいる。しかし、実際にはそれは真実ではない。この肉体の中にいてさえこんなに活動的な魂が、肉体から解放されたら全く不活動になる――そんなことがあり得るだろうか?魂は常に活動的である。そして魂が永遠の存在ならば、魂は永遠に活動する。そして魂の精神的な王国における諸活動こそ、精神的知識のなかでも最も秘奥な部分なのだ。したがって、精神魂のこういった活動はここで、すべての知識の王、すべての知識の最も秘奥な部分と述べてある。
ヴェーダ文典でも説明してある通り、この知識はあらゆる活動のなかで最も純粋なものだ。『パドマ・プラーナ』には人間の罪悪業について分析してあり、罪は罪を呼ぶと言っている。果報を求める活動をしている人々は、次々とちがった階段を相(すがた)の罪悪的な反作用にもつれていくのだ。たとえば、ある樹の種を蒔いても、それはすぐに樹木になるわけではない。それには時間がかかる。最初は小さな芽を出し、次第に木の形になっていく。それから花が咲き、実を結ぶ。そして種を蒔いた人が、その花や果実を享受する。これを同じように、人がある罪悪業をしても、それが実を結ぶまでには時間がかかるのだ。いろいろな段階を通過する。その人がその罪悪業を中止していても、行っただけの罪悪業の結果は必ず実を結んで、その人の手元に還るのだ。また種の形のままの罪もあるし、既に実を結んで、災難とか苦痛とかの形で私たちが味わっている罪もある。
第7章の第28節に説明してあるように、すべての罪悪業の報いを完全に受け終えた人、それから、この物質界の二元性から解放されて敬虔な活動ばかりを為している人々はバガヴァーン、クリシュナへの献身奉仕をするようになる。つまり、実際に至上主への献身奉仕をしている人々は、あらゆる罪の報いから既に解放されている、ということだ。これは『パドマ・プラーナ』のなかで確証してある。
aprārabdha-phalaṁ pāpaṁ
kūṭaṁ bījaṁ phalonmukham
krameṇaiva pralīyeta
viṣṇu-bhakti-ratātmanām
バガヴァーンに献身奉仕をしている人々の罪悪業の報いは、たとえそれが既に結実してしまったものでも、また成長中のものでも、或いはまだ種の形であるものも、全部が次第に消滅していく。かくの如く献身奉仕の浄化力はまことに強力なのだ。だからパヴィトラム・ウッタマと呼ばれる。最も純粋なるもの、という意味だ。ウッタマは超越的な、ということ。タマスはこの物質界、または暗黒ということ。そして、ウッタマは物質的活動を超越しているということ。時には献身者が一般の人と同じことをしているように見えても、献身者は決して物質次元のものではない。献身奉仕の内輪に入ってよく観察すれば、彼らの行動は物質次元ではないことがわかる。彼らは皆、精神的で、献身的であって、物質自然の性質(グナ)に汚されていないのである。
献身奉仕をするということは実に完璧であり、人はその功徳を直接感知できると言われている。この直接の功徳は実際に感知できる。誰でもクリシュナの聖なる御名(ハレー・クリシュナ・ハレー・クリシュナ・クリシュナ・クリシュナ・ハレー・ハレー/ハレー・ラーマ・ハレー・ラーマ・ラーマ・ラーマ・ハレー・ハレー)を侮辱することなく唱えている人は、そのうち必ず、或る超越的な喜悦を感じるようになり、非常に急速にすべての物質的汚染を浄化していくのだ。これは私たちが実際に経験していることなのだ。また、献身奉仕について聞いているだけでなく、実際に自分も献身活動のメッセージを宣布しようと努力したり、クリシュナ意識の伝道活動を援助している人は、次第に精神的な進歩を遂げていくのを感じるようになる。精神生活におけるこの発達は、それまで受けてきた教育や資格にたよるものではない。その方法自体があまりにも純粋であるために、ただそのなかに入るだけで人は純粋になるのだ。
『ヴェーダーンタ・スートラ』(3-2-26)にも、このことが次のように書いてある。「献身奉仕はまことに強力な功徳があり、献身奉仕の諸活動に従事しただけで、その人は疑いなく啓発される。」と。このことの実際的な例をナーラダの前世に見ることができる。彼は前世で女中の息子で、何の教育も受けておらず、高い家系に生まれたわけでもなかった。しかし彼の母親が偉大な献身者に仕えていた時、ナーラダもその手伝いをしていた。母が留守のときには時々、彼自身がその偉大な献身者たちに仕えることもあったのだ。ナーラダ自身がこう語っている。
ucchiṣṭa-lepān anumodito dvijaiḥ
sakṛt sma bhuñje tad-apāsta-kilbiṣaḥ
evaṁ pravṛttasya viśuddha-cetasas
tad-dharma evātma-ruciḥ prajāyate
『シュリーマド・バーガヴァタム』(1-5-25)のその節で、ナーラダは自分の前世について彼の弟子ヴャーサデーヴァに語っている。少年の頃、彼は純粋な献身者たちが滞在していた4ヶ月の間、彼らにボーイとして仕え、親しく交際した。時々この聖者たちは皿に食物を残すことがあり、彼らの皿をいつも洗っていたこの少年はその残り物を味わってみたくなった。それで彼はその偉大な献身者たちの許可を得て、彼らがくれた時にナーラダはその残り物を食べた。そうしているうちに彼はすべての罪悪業の報いから解放されていった。残り物をいただいているうちに、主について聞いたり唱えたりすることによって絶え間ない主への献身奉仕の味を楽しんでいた。そして、ナーラダは徐々に同じ味わいを発達させていったのだ。ナーラダはさらにこう言っている。
tatrānv-ahaṁ kṛṣṇa-kathāḥ pragāyatām
anugraheṇāśṛṇavaṁ mano-harāḥ
tāḥ śraddhayā me ’nu-padaṁ viśṛṇvataḥ
priyaśravasy aṅga mamābhavad ruciḥ
その聖者たちとの交際によって、ナーラダは主の栄光について聞いたり唱えたりすることに味わいを得た。そして彼は献身奉仕への大いなる望みを育てたのだ。だから『ヴェーダーンタ・スートラ』に“プラカーシャシャ・チャ・カルマナイ・アビヤーサート”と書いてあるように、献身奉仕にかかわる諸行為にたずさわっただけで、すべてのことが自然に明らかになり、理解できるようになる。このことを“プラティカシャ”――「直接感知」と称する。
“ダルマヤム”という言葉は「宗教の道」という意味である。ナーラダは実際女中の息子だった。学校に通う機会などなかった。ただ母親の手伝いをしているだけだったが、幸いにも彼の母は献身者たちに仕えていた。だから子供のナーラダも機会を得、ただその交際だけによって彼はすべての宗教が最高の目標としているところを達成したのだ。『シュリーマド・バーガヴァタム』に書いてあるように、すべての宗教の最高の目標は献身奉仕である。宗教的な人々は一般に、宗教が目指す最高の完成が献身奉仕であることを知らない。第8章の最後の節に関して既に論じてきたように自己の悟りのためには、ふつうヴェーダの知識が必要とされている。しかし、ここでは決して精神の師(グル)の学校にいったこともなければ、ヴェーダを学んだこともなかったナーラダが、ヴェーダを学びつくした最高の成果を達しているのだ。この方法は実に効果があるので、宗教的な修練を規則正しく実行しなくても、最高の境地に達せられる。そういうことがいかにして可能なのだろうか?これもヴェーダ文典に確証してある。“アーチャーリヤヴァーン・プルショ・ヴェダ”偉大なアーチャーリヤたちと交際している人は、たとえ教育が無くともヴェーダを学ばずとも、悟りのために必要なあらゆる知識を身につけることができる。
献身奉仕は非常に美しい(ススカム)方法である。なぜだろう?献身奉仕はシュラヴァナム・キールタナム・ヴィシュノから成っているので、人はただ主の栄光を聞いて唱えて、正統なアーチャーリヤたちの、超越的な知識に関する哲学的な講義に出席するだけでよい。ただ座っているだけで学ぶことができるのだ。それから、神に捧げた食物のお下がり、美味しいご馳走も食べられる。どの一つとっても献身奉仕は楽しい。どんなに貧しい境遇にあっても献身奉仕はできる。主はおっしゃる。「パトラム・プシュパム・パラム・トヤム」彼は献身者からそんな種類の捧げ物でも受け取って下さる。何を捧げるかなど余計な心配は不必要だ。木の葉でも、花でも、果物の一片でも、ほんの少しの水でも、世界中のどこでも得られるから、誰でも、そんな社会的身分の人でも捧げることができる。ただ愛を込めて捧げるならば、主は受け取って下さるのだ。昔から沢山の例がある。主の蓮華の御足に捧げられたトラシーの味わっただけで、サナト・クマーラのような偉大な聖者たちが、偉大な献身者になったのだ。このような献身奉仕の方法は実に結構なもので、幸福感に浸りながら修練できる。神は捧げられたものにこめられた愛だけを受け取られるのだ。
この献身奉仕は永久に存続すると、ここで言っている。マーヤーヴァーディー哲学者たちが主張するようなものではない。彼らは時々いわゆる献身奉仕をするけれども、彼らの考えというのは、「まだ解放されていないうちは献身奉仕を続けるけれど、最後に解放されたら、“神と一体になる”になる」というものだ。こんな一時的な御都合主義的な献身奉仕は、純粋な献身奉仕ではないのだ。本当の献身奉仕は解放された後も続く。献身者が、神の王国内に属する精神惑星に行くと、そこでまた至上主にお仕えする。至上主と一体になってしまおうなどとはしないのだ。
『バガヴァッド・ギーター』を読めばわかるように、本当の献身奉仕は解放されてから始まる。解放された後、ブラフマンの境地へ(ブラフマ・ブータ)に達した時、人の献身奉仕は始まるのだ。カルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、アシュターンガ・ヨーガ、その他のどんなヨーガでも、それだけではバガヴァーンを理解することは誰にもできない。これらのヨーガの方法は、バクティ・ヨーガに向けて少しの進歩をすることができるかもしれないが、献身奉仕の段階までこなければ、バガヴァーンについて理解することはできない。『シュリーマド・バーガヴァタム』にも、「献身奉仕の実践、特に『シュリーマド・バーガヴァタム』や『バガヴァッド・ギーター』を、悟った魂から聴くことによって浄化された時、人はクリシュナの科学、つまり神の科学を理解できる」と、はっきりと書いてある。あらゆる転倒妄想(ナンセンス)がハートから払い清められたとき、人は神を知ることができる。すなわち献身奉仕の方法、クリシュナ意識の方法こそ、すべての教育の王であり、すべての秘奥な知識の王である。それは最も純粋な形の宗教であり、しかも難しくなく、楽しく実行できる。だから、人はこの方法を採るべきなのだ。
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